杜氏・蔵日記

本みりんが生まれた背景 そして源流

この知識はこんな方におすすめ

  • 日本酒の発展と時代の背景が知りたい方
  • 焼酎が生まれ、みりん生まれた時期とは

本みりんの源流を訪ねる時、本みりんが出現した戦国時代の世相を無視することはできません。16世紀初め、戦国時代に入るとそれまでの寺院における酒造りとは別に、西宮をはじめ、河内酒、大津酒などの地方において製造された酒が京都に進出してくるまでに成長しました。その勢いは、洛中の酒屋と市場においても勢力争いを繰り広げる程でした。

これらの、いわば新興酒造地はいずれも年貢米、商品としての米が集中する当時の港湾都市とか、あるいはその後背地でありました。そしてこの時代以降、酒造業の発展は大量の酒造米が容易に確保しやすい港湾とか、あるいはそれらと直結した地域である事が有力な前提条件となったのでした。この時代に入って海外貿易は隆盛を迎え、新興都市が興隆してきたのでした。
当然、民衆は新しい秩序を求めて、活発な活動でこの時代を支えたのでした。

こうした社会情勢の推移の一端は、酒造技術にも大いに反映されることになりました。酒造りの過程はますます精緻になり、酒の品質は大いに向上して行ったのでした。製造に使用する容器も中世の壺仕込みから一挙に5倍から10倍までの量に達する仕込みを可能にしたばかりか、酒質の均一化をはかっていったのでした。

そしてこの時代の機運の中、戦後後期、大和の菩堤山正暦寺において、麹米、かけ米、共に精白米を使って仕込む、今日の清酒製造と同様の製造法の「諸白酒」が創製されたのでした。一方、米をその基幹材料としながら、従来の醸造酒とは全く異なる焼酎が出現してきました。この焼酎の登場によって、醪の中で発酵作用を求めず、糖化作用だけで酒造りが営まれる本みりん(味醂酎)が創製されたのでした。

さらに海外貿易の隆盛とキリシタン宣教師の渡来によって民衆と南蛮文化が身近になり、「珍駄、ぶどう酒、ろうち、かねぶ、阿刺吉」等、フラスコに注がれた南蛮の酒に民衆の関心が寄せられたのでした。この時代に持つ、民衆が持っていた新奇さへの探究心が、次の江戸時代における酒の多様化を大いに促す要因になったのでした。

この時代になされた醸造技術の上での大改革は、「諸白」であり、焼酎を使った酒の登場につきるでしょう。大和の正暦寺で創製された諸白酒は、16世紀後半には京都の市場を賑わし、間も無く他の酒を完全に圧倒し、「奈良諸白」をもって天下第一等の名声を博するようになったのでした。以後、諸白仕込みと濁酒仕込みとは明確に区別されるようになったのでした。

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